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ちぇりさん
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戦国時代の永正年間(1504〜1520年)、信濃守護家小笠原氏が深志城を築城したものが、松本城の土台となっています。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家が関東に入府。当時の徳川家家臣の松本城主小笠原秀政は下総古河(現在の茨城県古河市)3万石を与えられ転封。その後、石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守、乾小天守のある石垣造の近世城郭に改築しました。 現在の黒漆塗りの下見板張りの天守は国宝に指定、城跡は国の史跡に指定されています。 本丸正門の復元された黒門は侵入者が直進できないよう桝形門になっており、一の門が櫓門、二の門が高麗門になっています。
古き日本の建築物と白鳥や花木や自然との調和が素敵で、美しい光景に癒されます(^^♪
by Takahiro Sagawa
2018年6月29日
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安土桃山時代に豊臣秀吉により築城され、江戸時代に修築された大阪城。現在の大阪城の天守は築城から三代目のもの。初代は豊臣秀吉が築いた大阪城の天守で五重六階地下二階、黒漆塗りの下見板張り、金箔瓦の望楼型(ぼうろうがた)天守。二代目の徳川秀忠が再建させた大阪城は豊臣時代の城跡に盛土をして建設され、五重五階地下一階、白漆喰塗籠、瓦葺(かわらぶき)の層塔型(そうとうがた)天守。現在の天守は大阪市民の寄付金により昭和6年(1931年)11月7日に竣工したもので五層八階(入口のある一階部分は地下)の造りとなっており、復興天守閣では初層から四層までは徳川時代風の白漆喰壁、五層目は豊臣時代風に黒漆に金箔のものとなっています。 天守の中は「大阪城天守閣」として重要文化財の「大坂夏の陣図屏風」(通称黒田屏風)などの所蔵品を展示しています。 ※望楼型は上下層が一体型ではない構造。層塔型は上下層が一体となっている構造。
大阪城公園で写した、枝垂れ桜越しの天守閣です。
by シリウス
2018年6月29日
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彦根城は、比較的コンパクトな天守閣の内部に上がることができますが、たどり着くまでが意外と急傾斜です。 さすが名城。
by ムラサキ
2018年6月26日
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元弘4年(1334)、現在よりも東側に築かれたのが岸和田城のはじまり。楠木正成の一族・和田高家が手がけたとされています。ちなみに、岸和田城のある周辺は、もともとは「岸」と呼ばれていたそう。そこに和田氏が城を築いたことで、現在の「岸和田」と呼ばれるようになったといわれています。 その後、天正13年(1585)には、羽柴秀吉の伯父にあたる小出秀政が城主に。本丸を五層にもなる立派な天守へと大改修されました。しかし、文政10年(1827)の落雷によって焼失し、当時の名残は石垣のみとなっています。 現在の天守閣は3階3層の天守閣。昭和29年(1954)に復元されたものですが、それでも目の前にすると力強い威厳を感じます。当時の大天守閣は、さらに堂々たるものだったのでしょう。天守閣に登れば、岸和田市の姿を一望することもできます。
うろこ雲も焼けて、岸和田城の夕景はとても素晴らしかったです。
by TaloonTop user
2018年6月19日